01
採用を繰り返すより、いま働く人が定着するほうが経営は強くなる
歯科医院の経営では、採用と同じか、それ以上にスタッフの定着が大切です。せっかく人を採用しても短期間で辞める状態が続けば、医院は何度も採用と教育をやり直すことになります。歯科医院のスタッフ定着は、人事の問題ではなく、医院経営そのものを安定させる取り組みです。
定着している医院が、特別なことをしているわけではありません。日々の対話を積み重ね、スタッフの成長が見える環境をつくり、院長自身が一人ひとりと誠実に向き合っている。仕組みと院長の姿勢、この二つが重なったところに、「ここで働き続けたい」と思える場所ができていきます。
前回、求人に応募が来ない理由をお伝えしました。採用の話をするなら、同じだけ定着の話をしないと片側しか見ていないことになります。私は歯科医師ではありません。飲食やマーケティングの世界を経験し、いまはTHE DENTIST+を通じて歯科医院に関わっています。業種を問わず共通する組織づくりの原則という視点から、この問題をお伝えします。
一人のスタッフを採用するまでに、医院は想像以上に多くのものを使っています。求人を出し、応募者とやり取りをし、面接をする。採用が決まれば、制服や備品を用意し、院内のルールを説明し、仕事を教えていく。教育する先輩スタッフも、本来の仕事をしながら時間をつくっています。
ようやく仕事を覚え、患者さんとのやり取りにも慣れ、医院の流れがわかってきた。そのタイミングで退職となれば、また最初からです。
失われるのは採用コストだけではありません。それまで教育に使った時間と経験も、一緒に消えます。残ったスタッフには仕事が増え、新しく入った人をまた教えることになり、診療中の余裕も少なくなります。歯科衛生士の離職が続けば、担当していた患者さんの引き継ぎも発生します。「前回と担当が違う」が続けば、患者さんとの関係づくりにも影響が出ます。
それでも、「人は辞めるものだから仕方がない」と採用を繰り返している組織は少なくありません。私もさまざまな組織を見てきましたが、この採用費の負のサイクルを当たり前として疑わないまま、毎年同じようにお金を投じているケースを何度も見てきました。
人が辞めることをゼロにはできません。それでも、採用だけを見るのをやめて、いまいる人が長く働ける環境に目を向けると、経営の景色は変わります。教育したものが積み上がり、スタッフ同士の連携も深まる。定着率が高まるほど、医院に経験値が残ります。定着は、費用対効果のもっとも高い経営施策の一つです。
02
退職は突然ではなく、小さな違和感が積み重なった結果である
スタッフが辞める理由を考えるとき、給与や勤務時間など、目に見える条件に意識が向きがちです。待遇は大切です。ただ、実際の退職が一つの理由だけで決まることは、ほとんどありません。
頑張っているけれど、誰も見てくれていない。困っていることがあるけれど、相談するタイミングがない。仕事には慣れてきたけれど、この先、自分がどう成長していくのかわからない。こうした小さな違和感が、少しずつ積み重なっていきます。
そして最後に、「退職します」という言葉になって表に出ます。
経営する側からは、突然の退職に見えることがあります。けれど退職とは、さまざまな原因や出来事を経た結果が、最後に現象として現れたものです。原因は、その何ヶ月も前から医院の中にありました。
だから大切なのは、退職届が出てから理由を聞くことではありません。まだ小さな違和感の段階で、スタッフの変化に気づける関係をつくっておくことです。
03
対話の時間が、「自分はこのチームの一員だ」という自覚を育てる
スタッフが定着している医院ほど、対話を偶然に任せていません。
診療が忙しい歯科医院では、朝から患者さんが続き、気がつけば診療終了という日もあります。院長もスタッフも、お互いに「あとで話そう」と思いながら、そのまま一日が終わる。だからこそ、短い時間でも意図を持って話す機会をつくることに意味があります。
その方法の一つが一対一の面談です。月に一度でも、十分や十五分でも構いません。最近の仕事について話す。困っていることを聞く。これから挑戦したいことを聞く。院長一人で全員を抱える必要はなく、チーフや担当者が受け持つ形でも成り立ちます。
大切なのは、制度そのものではありません。「自分のために話をする時間が用意されている」という事実が、一つのメッセージになります。この時間が、自分もこのチームの一員なのだという自覚を育てます。
そして対話は、面談の席だけで起きるものではありません。朝の「おはよう」。診療後の「今日はありがとう」。「この前お願いしたこと、どうだった?」という確認。「何か困っていることはない?」という声かけ。「あれ、できるようになったね」と変化に気づくことも、その一つです。
これは、スタッフを褒めればいいという話ではありません。自分の仕事を誰かが見てくれている。自分の変化に気づいてくれている。困ったときに声をかけてもいい。そう感じられる日常をつくることです。
定期的な面談と、日々の小さな声かけ。この二つが重なると、スタッフと医院との距離は少しずつ縮まっていきます。
04
スキルマップは、現在地と次の目標を見せる道しるべになる
人は、自分が前に進んでいると感じられる場所では、仕事を続けやすくなります。ところが、毎日同じ診療を繰り返していると、自分が成長しているのかどうか、わからなくなることがあります。
入職した頃にはできなかったことが、半年後には当たり前にできている。それでも、誰からも言われなければ、本人は意外と気づきません。
そこで役に立つのが、教育のチェックリストやスキルマップです。スキルマップというと難しく聞こえますが、現在地と次の目的地がわかる地図のようなものだと考えてください。
いま、自分は何ができるのか。次は何をできるようになればいいのか。その先にはどんな仕事を任せてもらえるのか。これが見えるだけで、仕事の受け止め方が変わります。
たとえば新人スタッフが、先輩を見ながら「私はまだ全然できない」と感じていたとしても、地図があれば「ここまではもうできている。次はここを覚えればいい」とわかります。院長や教育担当者の側も、「もっと頑張って」という曖昧な伝え方を減らせます。
成長を可視化することは、評価のためだけではありません。自分がどこまで来たのかを本人が確かめ、次にどこへ向かうのかをわかるようにする。それは、医院がスタッフに用意できる道しるべです。
05
「人に投資しても辞めるなら無駄」では、採用の循環から抜け出せない
ここまでお伝えすると、「そこまで教育しても、結局辞めてしまったら無駄ではないか」と考える先生もいらっしゃると思います。この見方は理解できます。時間をかけて育てたスタッフが退職すれば、経営者として残念なのは当然です。
ただ、人に投資することを避けながら、毎年採用に大きな時間とお金を使い続けるほうが、長い目で見るともったいない。私はそう考えています。
人への投資は、研修費のことだけを指しません。対話する時間をつくる。仕事を教える。成長を一緒に確認する。困っているときに声をかける。これらもすべて、人への投資です。
そして、その投資は一人のスタッフだけに残るものではありません。教える文化が生まれれば、先輩が後輩を育てるようになります。スキルマップをつくれば、次に採用した人の教育にそのまま使えます。面談を続ければ、問題が大きくなる前に話せる空気が医院に残ります。
人への投資は、人だけでなく、組織に蓄積されていきます。この視点を持つと、「辞めるかもしれないから育てない」ではなく、「誰かが辞めても残る組織をつくる」という考え方に変わります。
06
仕組みを整えても、最後にスタッフが見ているのは院長の姿勢
面談を導入する。スキルマップをつくる。評価制度を整える。こうした仕組みは大切です。ただ、仕組みだけで人が定着するわけではありません。
結局のところ、スタッフは院長を見ています。
忙しいときにどんな態度を取るのか。ミスが起きたときにどう接するのか。患者さんには丁寧なのに、スタッフには雑な対応になっていないか。スタッフが頑張ったときに、「ありがとう」と言葉にしているか。
働く人にも、その人自身の生活があります。家族がいて、将来について考え、仕事以外にも大切にしているものがある。一人の人間としてスタッフを見る院長の姿勢は、どんな制度よりも伝わります。
私自身、これまで「この人のようになりたい」と感じたリーダーを振り返ると、共通していたのはそこでした。特別に話がうまいわけでも、いつも正解を持っているわけでもない。ただ、人に対して誠実でした。
定着は、仕組みと院長の在り方、その両方でつくられます。
07
スタッフを大切にすることが、患者さんを大切にできる循環をつくる
スタッフが辞めない医院は、特別なことをしているわけではありません。人を大切にすることを、続けているだけです。
歯科医院にとって大切なのは、もちろん患者さんです。そして、その患者さんを毎日支えているのはスタッフです。受付で患者さんを迎える人がいる。診療の準備をする人がいる。歯科衛生士として、継続的に患者さんのお口を見ている人がいる。
患者さんを大切にする医院だからこそ、その患者さんを大切にしてくれているスタッフを大切にする。この二つは、別々のものではありません。
スタッフが安心して働ける。経験が積み上がる。スタッフ同士の連携が良くなる。患者さんとの関係も深まっていく。そうしたプラスの循環が生まれることで、医院は少しずつ強くなります。
私が考える伴走とは、何かを上から教えることではありません。先生と同じ方向を見ながら、この医院にとって、いまできることは何だろうと一緒に考えることです。
定着についても、最初から大きな制度をつくる必要はありません。明日の朝、スタッフの顔を見て挨拶をする。いつも助けてもらっているスタッフに、ありがとうと伝える。少し気になっているスタッフに、最近どう、何か困っていることはない、と声をかける。そこからで十分です。
スタッフが辞めない医院づくりは、求人票を書き直すところから始まるとは限りません。いま、一緒に働いてくれている人を見ること。それが、明日から始められる最初の一歩です。
財津 昇
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